真夏の夜のナイトメア

 プリーズ、ドントフリーズ……… 
 苅口経理主任は目を瞑り、一心に祈った。頼んまっせ、カタマルなよ………。
 表計算ソフトで大きな表を作ってセーブしたときに、スペック的に能力不足のパソコンの場合、保存を指示するとフリーズしてしまうことがある。社内で新品のパソコンを使っているのは営業部で、総務経理部で使っているマシンはスペック的にやや劣る“お古”のパソコン3台と最近購入した新古品の激安パソコン1台である。非生産部門は後方支援部隊ということもあり、なかなか最新鋭機が配置されない。綾口優子総務部長も、パソコンで処理するのは財務ソフトに表計算ぐらいだからこの程度で充分でしょ、などといっているが、認識が甘いと苅口経理主任は思っている。
 いまは、全面的に時価会計基準に則って財務諸表を作っているのである。社長の指示で月次試算表も同じ基準で、ということになってしまったので、経理部の仕事は量的に増え、かつ、質的にもレベルアップしたものになった。毎月の〆日で資産・負債勘定の殆どの科目を時価へと再評価しなければならない。そのために、損益計算書の営業外損益以下のところでいろいろな損益が発生して、税引き前当期利益がかなりの金額で影響を受けてしまう。利益が一気に出ることもあれば、奈落の底へ落ちるように損失が生じて大幅赤字になることもある。まさしく乱高下の月次損益である。
 時価評価するということは、将来キャッシュフローの現在価値を数字で表す、ということである。たとえば、銀行預金。ペイオフ後のリスク回避のため、都市銀行だけではなく、経営内容のよい地方銀行まで、本社と地方6ヶ所の営業所で口座数を増やして分散管理していて、定期性の預金も銀行数以上の口数で保有している。これらについては、受取利息としてすべて経過利息を計算しなければならない。しかも、市場金利を常にチェックして、たとえば、固定金利の長期定期預金の場合、市場金利が上がると、それを考慮した上で長期定期預金の現在価値を算定すると、簿価を下回る評価額になり、ここで損失が生じてくることになる。このような計算をするには、パソコンがないととてもできないし、具体的に表計算ソフトを使って行う作業になるが、定期性の預金の口数が百本もあると大きな表になってしまう。
そこで、現実的な話、パソコンのスペックがモンダイになってくるのである。
「部長は自分がやらないからなぁ、この程度じゃパワー不足なんだけど………」
 こう呟いて、苅口経理主任は次の評価替え科目に取り掛かった。有価証券である。
 上場株、公社債、証券投資信託など市場価格のあるものはすべて毎月評価額がかわる。そうして、貸付金、従業員貸付金、売掛金へと進む。この辺になってくると、相手の信用リスクを評価額へと反映させなければならないために、信用リスクを指数的にどう取るかがムズカシイ。相手件数も千件近い数なので、ひとつひとつ検討しているヒマなどないし、調べることだってなかなか時間を取ることができない。苅口経理主任にとっては、信用調査会社からくるメール情報が唯一の頼りである。
 これらの評価計算は、特に売掛金は量的にヴォリュームがあって計算表も大きくなり、相当の時間がかかる。
土地建物についても、減損会計により、時価評価すべきなのだが、特別の事情がない限り、当社では決算時だけでよいことにしている。土地建物まで将来の回収可能性、即ち、売却価額か将来キャッシュフローのどちらかをいちいち検討していたら、ただでさえ、残業が増えつつあるのに、時間がどれだけあっても足りないのである。
そのうえ、経理主任としての仕事のキャパシティを超えてしまうだろう、と苅口経理主任は思う。投資資金の回収が不可能かどうかについては経営者の判断事項で、僕のような下っ端がいうことじゃないだろうな。ただ、あの営業所は本支店会計で3期連続赤字なんでダメかもしれないけど。
しかし、そんなことを考えている時間的余裕はない。役員会は明日である。今日中に月次試算表を仕上げて綾口部長に渡さなければいけない。まだ、その他の資産、負債の方では、長短借入金、私募債の社債と評価替え計算のテゴワイものがたっぷり残っている。内線電話が鳴っても取るヒマもないくらいである。
「苅口経理主任、社長が売掛金の信用リスクをこれだけ見直してくれって。何か悪い情報が入ったんだって」
「はぁ………えぇっ!?」
綾口部長からずらっと10社くらいの社名が書かれたメモを渡されて、思わず奇声をあげた。 
「信用調査会社のホームページで情報収集して確認もしてくれって…」
「えぇ〜〜〜っ!」
「仕様がないわよね、数字に影響しちゃうんだから。ウラをしっかり取っておかないと、あら、メールが来てるわよ」
 なかば放心状態になった苅口経理主任だったが、手馴れた操作で目の前のパソコンから自分の受信簿をあけた。
『苅口経理主任殿
営業損益が3年連続継続的に赤字で、3年連続継続的に営業キャッシュフローがマイナスという営業所については、特別事情に該当すると考えられるので、営業所の土地建物の(減損損失)の見積もり計算をして社長に報告してはいかがですか。』
「S先生からのメールね。ふ〜ん、これはいいわねぇ。役員会用にこの通りやって見積もり減損損失を出してみてよ」
「明日までですかぁ〜」
「朝イチでいいのよ」
「9時までですよね」
「そうねぇ。中身はベテラン経理主任を信用してるから、やっといてよね」
 かる〜くそういって、綾口部長はさっさと自分の席に戻った。
 苅口経理主任は自分の身体がググッと熱くなってくるのを感じた。あぁ……今夜は何時に帰れるのかなぁ。
いつものことだが、やたら喉が渇く。目も乾く、ドライアイである。月次試算表の提出期限が近付くと、何故かしらジリジリしてくるのである。ペットボトルの水を飲んでも飲んでも足りない。目薬を差しても気休めにしかならないと思う。しかし、どっちもやめられない。ジワジワ熱さも、目の乾きも治まる気配がないのである。
………苅口経理主任は目を覚ました。夢だった。悪い夢である。全身に寝汗をかいていた。手で額の汗をぬぐいながら、この暑苦しさは夏のせいだけじゃない、そう思った。

(続く)

[平成13年8月号]

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