ルカの作文A
前回予告しましたが、今回はルカが"根にもつ"ことについてお話しします。
まずは、ルカの作文を紹介します。
合同学芸会の思い出
1月25日 公会堂で合同学芸会がありました。(略)
ぼくたちの中学は5番目で、それまでいろいろ発表を見てましたが、2番目のA中、B中合同チームの発表に僕はうらみを持ちました。なぜなら、あの学校はうちと同じエーデルワイスをやったからです。うちはエーデルワイスを発表する予定だった。しかし、あの学校がエーデルワイスを発表したせいで、うちは目立たなくなった。だから、ぼくはうらんだ。
(略)
ついにきました。ぼくたちの出番が、今、発表の時を迎えました。まずは、ハンドベルで出だしをつけました。しかし、Y君が間違えてしまいました。なんとそれを口にしたのです。「あっ、まちがえた」という声とちがう音が響き、出だしから超恥かしいエラーを起こしてしまい、ぼくの中学は笑われ者となってしまい、ぼくはすごい恥でした。後は順調に進んでいたものの、ぼくも木琴でつっかかりましたので、いい発表にはなりませんでした。非常に残念でした。
自分の発表が終わり、他の学校の発表を見てましたが、これもまたとんでもない学校があらわれました。それはC中学校です。あの学校もうちと同じエーデルワイスを発表していたのです。しかし、学校はうちの後にやったので、そんなやばい影響はありませんでしたが、それでも僕はあの学校をうらんだのです。A中、B中、そしてC中にはうちと同じエーデルワイスを発表したという動機でうらみをもちました。
帰宅する前に公会堂の前で集合写真をとりました。そして電車に乗って帰りました。
今年の合同学芸会は、一応いいものもありました。しかし、自分たちの発表は悪い上、3つの学校がうちのマネをした以上、いいものだとみとめられなかった。
いかがですか。
これは、市内の特殊学級の中学生が1年に1回、10分程度の出し物を発表しあう、合同学芸会の感想です。
ルカの中学は合奏(エーデルワイス)とダンスを披露。本人の気持ちとは裏腹に、とてもよくできていたのですが、どうも本人は二つの点で納得がいかないようで。
一つは、ミスをしてしまったこと。これは誰にでもあることで、少々ルカの場合、完璧主義のところがありますが、まあ・・・理解できる範囲です。
しかし、二つ目の他の中学と自分の中学の出し物がダブったという話、理解できますか?
しかも、「恨む」という過激な言葉が飛び出し、私もう〜ん、どうしたものかと悩んでしまいます。
当然ルカは作文だけではなく、学芸会が終わった後も、いつまでもそのことを話題にして、許せない!!といっておりました。
私が、「相手の中学校だって、ダブっていることを知らなかったんだから、恨むのはおかしい」と、反論しても聞く耳持たずです。
今回は、それでもあまり尾をひかず、2〜3日で話題にしなくなりましたが、結構、ずっとこだわり続けてしまうことがあります。
例えば、昨年の合同発表会ではアンパンマンのかぶりものが登場してきて、「中学生なのに許せない」と、激怒しておりました。
歴史の勉強にと、古代の建造物の見学にいくと、そこに古代にはなかったはずの消火器が置かれていることがよくあります。すると、「古代にはなかった物をなんでおいておくんだ」とおこりだします。それは、万が一火事が起きるとせっかくの遺産が燃えてしまうからと、いくら説明しても聞き入れてくれません。
それでも、ある一定の期間がすぎると、一時的に気にならなくなるようで、それが救いなのですが。
これが、自分の中でどんどん大きくなっていって、思うだけではなく、行動に移すということになると、ことは深刻かもしれません。
そうならないためには、どうしたらよいか? 有効な手だてはあるのか?
実は私、今回のテーマにこのことを選んだことを少々後悔しています。
これを読んでいる人が、いたずらに不安感を増大させてしまってもなあと・・・
対処法としては、やはりとりあえず、彼の話は聞いてやる。疎外感を強めないように、とりあえずは、そんな考えもあるのかと、辛抱強く聞いて上げる・・・しかし、多分ずっと聞いていると耐えられなくなると思います。
そしたら、私は、自分の気持ちを正直にルカに告げるようにしています。
これ以上同じ話は聞けない、同じ話を何度も聞くのは不快だと。
ルカはそこら辺のことはわかるようで、黙って部屋に行ってくれます。
それと同時に、どう思うおうとそれはルカの自由ですが、社会的に受け入れられない行動〜報復を考えているような兆候が見えたら、それははっきり、罪になることを教えることです。
ルカの場合、そこまでエスカレートしたことはありません。多分、ほとんどのアスペルガーの人はそうなのだと思います。
アスペルガーの人は、やはり今回のルカの場合のように、凡人には受け入れがたい考え方をするため、なかなか社会に受け入れられないという、ハンディを持って生きていかなければならないのだと思います。
それでも、全部が全く異なるわけではないと思います。接点はきっとあるでしょう。違いを認めながらも、社会との接点を持ち続けること・・・難しいことですが、私たち(親)は、その道案内をしていかなければいけないのかなあと、思います。
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