儀式
〜血の旋律〜
・・・いつも、そう。
オトコはいつものように
書斎の紫檀の戸棚の隅から
一枚のCDを取り出す。
オトコのプラチナのリングが似合う長い薬指と、太い親指に挟まれたCDが
するりとディスクトレイの中に入っていく。
あたしはオトコがマーラーの交響曲「大地の歌」をかけながら
あたしのカラダを一枚一枚剥いでいく儀式がホントはあまり好きじゃない。
なのに、あたしはオトコに会うと
オトコの儀式を受け入れてしまう。
オトコの為でも、あたしの為でもない。
儀式というものは、受け入れなければならないものらしい。
昔、あたしが初めてオトコの洗礼を受けたときのように
オトコの意のままに血と肉を分け合うものらしい。
第一楽章が雄叫びを上げる。
金管楽器の慟哭を鎮めるように、この地上の悲哀をテノールが切々と語り出す。
現実を転がすようなスリリングな羽音があたしのカラダに音叉のように共鳴を強いる。
そして、儀式は始まる。
オトコはまずあたしの瞳から剥ぎ取る。
レンズフードをつけたままあたしに張り付いた、
あたしの一番気に入っている映像を
瞬きの間にオトコは何のためらいも無くスルリと剥ぎ取る。
それは、オトコとの出会いを閉じ込めたあたしの瞳。
あの日、オトコの愛をひとり占め出来ると錯覚した欲張りな双子たち。
次にオトコが剥ぎ取ったのは
あたしの鼻。
オトコの日常を隅々まで嗅ぎ回る憎たらしいこの鼻を
容赦なく根こそぎオトコは剥ぎ取った。
そうして、あたしの耳。
オトコが甘いことばを吹きかけるたびぶるんぶるんと
嘘だけに反応する疑り深いあたしの両耳を
オトコは一瞬のうちにメリメリと剥ぎ取り、
指でつまんでほおリ投げた。
瞳も鼻も耳もみんな、剥ぎ取られたままオトコの見えないところで
居心地悪そうに息を潜めている。
・・・いつも、そう。
マーラーは次にメゾソプラノに秋の夜の孤独を淡々と嘆かせる。
そのあとを東洋の風は、眩しい光の中にテノールを放り出す。
テノールはほろ酔い気分で明るく弾む。
そして、剥ぎ取られたままのあたしは夢の中で弾んでいる。
夢の中であたしは生まれたての赤ん坊。
タカーイ、タカーイをしてくれてるのは父。
父の頭の上であたしはケタケタ笑ってる。
父も嬉しそうに笑ってる。
笑いながら口から噴水のように血を噴出す。
あたしは父の飛ばした赤い血で何本も手を広げた丸いお日様を描く。
父は自分の胸の中の病巣に、あたしの描いた絵を貼り付けながら
日本酒をぐいっと呷る。
そしていつものように唄いだす。
「あんなになって、こんなになって、この子が出来たのよ」
独特の調子をつけて父は箸で皿を叩きながら唄ってる。
「もういっぱい」というので
「まだ、呑むの?」と、聞くと
「家に帰りゃあ、義理酒義理○○」
赤い顔をますます赤くしてそう答える。
すると今度は、急に真顔になって説教をしだす。
「男はな、天井の節穴でもアナさえありゃあいいんだからな」
あたしはフウンといいながらシャボン玉を飛ばしてる。
「もっと、もっと」と丸い泡を膨らませては飛ばしてる。
プチンプチンとはぜていくシャボン玉の向こうで誰かがあたしを呼んでいる。
拍子木を叩いて呼んでいる。
「こっち、こっち」
呼んでいたのは、紙芝居屋のオジサン。
オジサンは真っ赤な梅ジャムせんべいをあたしに見せる。
梅ジャムをたっぷり塗りたくった淡いピンクのせんべいが
ふわふわ目の前に浮かんでる。
あたしはすぐに「いやいや」をする。
「だめ、だめなの」
「紙芝居、見たいんだろ?」
「見たいけど、だめなの」
目の前に母の顔がちらつく。
そんな下品なもの。
食べたら毒なの。
・・・そう、毒が溜まるのよ。
あたしは毒なんか平気。
だからね、あたしのくちびるには毒を擦り込むの。
真っ赤な真っ赤な梅ジャムを舐めてみるの。
舌まで真っ赤になるあの梅ジャムをね。
「さあ、見て」
オジサンは言う。
「さあ、ぼくを見て」
オジサンの代わりにオトコの声があたしを迎えに来る。
剥ぎ取られたあたしの目にはオトコの顔は映らないけど
あたしはちょっとだけ薄目を開けてやる。
マーラーは水墨画に神秘な音の香(こう)を焚きこめて、
時に雄雄しく、時にはしゃぎながら、時に抜け目なく
歌声と融合をするために奔走し始める。
オトコの指はますますしなやかになり、
ティンパニーの慄きにあわせて強弱をつけながら
あたしの下の方に進んでいく。
二本のマレットが激情を叩きつける。
あたしの首から下はどんどん剥がされて何も見えなくなる。
だけど、あたしには剥がされた感覚がオトコの中に溶け出していくのがわかる。
オトコの為だけにあたしの感覚は惜しげもなく溶けていってしまう。
オトコはそんなあたしの“しがらみ”には目もくれず
打楽器が急かすたび、溶け出したものを吸い取っていく。
ひとつ残らず音を立てて吸い取ってゆく。
つま先から上に向かって順番に吸われてゆく感覚は
桃源郷に遊ぶテノールとひとつになってゆく。
テノールはいつまでも余韻の中で酔いながら春を追いかける。
あたしとオトコも行き着くところに向かい悶え始める。
だけどあたしの真っ赤に塗りたくった
このくちびるだけはしっかり閉じたまま。
身を捩じらせてヴァイオリンが手招きし続ける間あたしはオトコを焦らし続ける。
剥がされても、吸い取られても
あたしの血の旋律の音色は決してオトコには
届かないあたしの場所に隠しておくの。
亡くした我が娘への哀しみ、弟を死なせた償い
そして我が身への追悼のようにしめやかに長―い最終章が始まると
また、いつのまにかあたしの意識はまた夢の中を彷徨い出す。
あたしの目の前では何かがピチャピチャ跳ねている。
跳ねているのは・・・魚?
そう、それは一匹の鮒。
エーテルを振り掛けられた鮒はあっというまにおとなしくなり
作り物のような目玉であたしを見ながら口だけをパクパクさせる。
あたしは器用に右手でメスを入れる。
そして、腹を開くと左手でピクピク喘ぐ心臓を取り出す。
引きずり出した腸はミミズの様に這いずり回る。
麻酔から覚めた鮒はヒクヒクと体をよじり出したので
あたしは水槽の中に鮒を帰してやる。
腹を割かれ、心臓を取られたまま鮒は泳ぎ出す。
引きずり出された腸が細いリボンのようにひらひらと
赤い毒を流しながら舞っている。
水槽の中は赤い絵の具を溶かしたみたいに綺麗。
でも、その赤い水の中で毒を撒き散らしながら泳いでいるのはあたし。
裂かれたあたしを水槽の上からオトコが鮒の目玉で覗き込む。
取り出されたままのあたしのちいさなハート型の心臓をつまんで
にやにやしながらあたしを見てる。
ぞっとしてあたしは口をパクパクさせる。
肺の中の酸素がブクブク溶け出してあたしは息が出来なくなる。
だから苦しくて大声で叫ぶ。
叫ぶあたしの頬をオトコが叩く。
ピチャピチャと叩かれてあたしはやっと目を覚ます。
ファゴットは繊細なレガートをかけあたしに振動を伝える。
あたしの鼓動が細かく走り出す。
あたしの中ではオトコのspermがまだ迷っているみたい。
慌ててあたしはさっきオトコが剥がしたものを拾い集め
ひとつずつモトの場所に埋め込む。
眼、鼻、耳と、順番に埋め込んでゆく。
埋め込みながらとうとう我慢できなくなって
透明なメゾソプラノの嘆きに合わせて
真っ赤なくちびるを大きく開けてあたしは歌い出す。
儀式の一番の見せ場のアリアのように“そのとき”を飾る。
「あんたが好き」
「あんたが好き」
繰り返しあたしのメゾソプラノを張り上げる。
・・・いつも、そう。
オトコはあたしの隠し続けたその血の旋律の音色に
満足そうに目を閉じながら思いを吐き出す。
spermはようやくあたしの奥に辿り着く。
木管楽器たちが、深いため息と共に地の底を徘徊しているコントラバスをなだめる。
そして、人々の後悔という感情を弔うために急ぎ足で奔走する。
悪い子。やっぱり、見たんでしょ?
隠したってダメ。
だって、お口の中がマッカッカ・・・
「ママ、紙芝居嫌いなの?」
こそこそは嫌いよ。
・・・いつも、そうなんだから。あんたって子は。
こそこそ、オトコを食べたあたしを呆れた顔で
母が叱る。
「ママ、もう手遅れよ」
だって、真っ赤な毒はもうカラダじゅうに回っちゃったみたいにあたしはフラフラ。
オトコはフラフラになったあたしのカラダを平らに延ばす。
それでもしつこく、過去の幻影はへばりつくようにチューバを引きずる。
するとオトコは平らになったあたしのカラダを
聞き飽きたレコード盤を持て余すようにクルクル回す。
捨てるには惜しいかなと、左手の薬指を針のように尖らせてあたしを回す。
プラチナのリングはさっきより輝きを増したみたいに
オトコの指の回りでクルクル光ってる。
その指であたしを回しながら、さりげなくオトコは呟く。
「そろそろかな?」
あたしもあたしに言い聞かせる。
「そろそろ…ね」
あたしの感覚はまだ、吸い込まれたまま針の下で回り続けてる。
回りながらあたしの中にフィナーレの歌声が母への鎮魂歌となって潜り込む。
そろそろ、この世に宿る全ての悲哀への祈りのような
マーラーの交響曲「大地の歌」も別れを告げる。
Ewig ewig 永遠に…永遠にと別れを告げる。
じきに、あたしとオトコの儀式も別れを告げる。
Ewig ewig 永遠に…永遠にと別れを告げる。
そう・・・いつも、そう。
(*)sperm=精子 ギリシャ語「種」の意