一夜螢(ひとよぼたる)                           

                                     

 

トキちゃん

綺麗だね…螢だよ

螢があんなに

 

 

開け放った濡れ縁で母が呼ぶ。

呼ばれたトキエは母の肩に頭を寄り添い

母の指差す先を見る。

無数に舞う螢が自分のからだを燃やしてる。

燃やしながら母とトキエの目の前で戯れる。

一夜の生命(いのち)をつぎの世に繋げるために戯れる。

 

 

トキちゃん

ここは静かだね

あんた淋しくなかったかい…ひとりで

 

 

母はついさっきここに着いたばかり。

久しぶりにトキエに会えてとても嬉しそう。

変らない柔らかい言葉がトキエを包(くる)む。

トキエはここに来て随分になる。

来た時は確か、八歳。母は今年で七十歳になるからもう四十年以上になる。

トキエは自分がどうやってここに来たのかは覚えていない。

覚えていないというのはつまらない時もあるけど

楽な時もある。そのほうが多いかもしれない。

 

トキエは選ばれたこどもだったから…

着いたときにはもうしごとが待っていた。

今にも崩れそうなこの古い家。

住んでいるのはトキエひとりだけ。

だけど毎日生霊や(いきだまや)は何人もの人間を連れて来た。

それで毎日ほんとに忙しかった。

生霊やから預かった「ふしぎ玉」をここに来た人間たちに渡す事

それが選ばれたトキエのしごとだった。

 

 

ほの暗いこの家の中にも螢は迷い込んできた。

濡れ縁で佇む母の髪にとまる。

ほかの螢とは違う露草みたいな青い螢。

人の世の生の終わりをいたわるようにその光で母を飾る。

母は少女のようにはしゃいでる。

青紫の髪飾りをつけてはしゃいでる。

 

 

トキちゃん

この螢はひとなつこいねえ

さっきから私のそばを離れない

 

 

たいていのここに来た人間はここに来た理由を知らない。

トキエも話さない。

ただ、たまにめそめそしたり、

怒鳴ったりする人もいる。

帰りたがる人もいる。

そんな時はトキエはだまってその人の話を聞いてやる。

いっしょに泣いてやる。

いっしょに腹を立て

いっしょに帰れる方法を考える。

それで気持ちが楽になるみたい。

そしてトキエの差し出す「ふしぎ玉」を手にして出て行く。

 

 

おかあちゃん

だって…それはおとうちゃん

おとうちゃんだもの

 

 

今日はトキエも嬉しくて思わず口から言葉がこぼれる。

こぼれた口から可愛い舌をちょろっと出す。

「あっいけない」と舌を出す。

トキエのおかっぱ頭が浮かれて跳ねる。

トキエの心も手鞠のようにテンテンと跳ねる。

はにかんだ目はあの時のまま。

赤いほっぺの真ん中の二つのえくぼもあの日のまんま。

少しうつむきがちに爪を噛む癖も、

ちいさな手も丸いひざっこぞうもみんなみんなあの日のまんま。

こんなあどけない子をあの男はだまって連れて行った。

自分しか見えないコドクな男が欲望の箱の中に隠してしまった。

あの時のままのトキエがここにいる。

そう、トキエはまだ八歳だった。

 

 

トキちゃん

面白い事考え付くもんだね

この螢がおとうちゃんだっていうのかい

 

 

馬酔木(あせび)が真っ白な涙のつぶつぶを震わせてる。

少し風が出てきたみたい。

風といっしょに流れてきたのは谷川の咳き込む声。

時々鼻を詰まらせる山鳩のくぐもった子守唄…

こんこは、けえらねえ  かあさんなぐでねえ

あんこは、どけえいった とうさんなぐでねえ

つられて喉をふるわすヤモメの蜩(ひぐらし)

もう泣かないでカナカナカナと、夕暮れにカナシミを擦り込む。

 

 

トキエにふしぎ玉をもらった人間はそうして初めて「たましい」になる。

「たましい」にならないとあの世にはいけないから。

「たましい」たちは一晩だけこの世の名残りを遊ぶ螢になる。

つぎの世に送るたましいのもとを残すために「一夜螢」になる。

 

一夜螢たちが今夜も宴をはじめてる。

東の空からは思い出を溶かしたお月さんが顔を見せる。

西の空はもうとっくにほかほかのお日さんを飲み込んで

山は何度も大きなげっぷを吐く。

そのたびに樹木たちはからだを揺さぶり大げさに驚く。

 

 

トキエの「ふしぎ玉」はたくさんの螢を生む。

水辺の葦の懐から数え切れない螢が生まれる。

風が「しー」っとくちびるに指を立てる。

さっきまであんなに騒々しかった山も

自分のうたに溺れそうな山鳩も

切なさに浸っていた蜩もぴたっと声をひそめて

生まれたばかりの螢たちを覗き込む。

 

 

生まれたての光が儚げに灯りはじめる。

人間だった「たましい」の情念は螢になった我が身を熱く燃やす。

もうじぶんが人間だったことは覚えていない。

自分の名も自分が居た場所も自分が過ごしたはずの時間も…

すべてが光となって燃えてゆく。

 

 

トキちゃん

なんだか急にひんやりしてきたね

おやまあ、螢があんなに光り出して…

 

 

「たましいの螢」たちは自分の相手を探しながら光を飛ばす。

光は強ければ強いほどたくさんの螢が群がる。

選ばれた螢はもらった熱を新しい生命(いのち)に変える。

水際のガマの穂の首筋はたくさんの卵の数珠に飾られる。

そして、朝露の涙に看取られて用済みの炎はじゅわっと消えていく。

飴のような艶やかなからだはあっというまに錆びついて

水面(みなも)を漂いながらあの世という時の彼岸(かなた)に

「たましい」を紛れ込ませる。

 

 

トキちゃん

あんた、まだ持っててくれたんだね

それ、あたしが作った匂い袋だろ

 

 

トキエは選ばれたこどもだった。

選ばれたこどもは特別なおまけをもらっていた。

トキエが何十年もこの日を待てたのはその「おまけ」のせい。

トキエのちいさな胸のその胸元に吊るした綴れ織りの匂い袋。

母の思いに彩られ母の涙がいくすじも糸を紡いだ綴れ織り。

母の持たせてくれたこの色とりどりの小さな袋。

入ってるのは特別なふしぎ玉。

父にあげたのとおんなじもの。

今夜母とトキエをそっと誘(いざな)う特別なふしぎ玉。

三人がひとつになるための大切なふしぎ玉。

 

 

この玉は深い海で流す人魚の涙のように青い青い炎を灯す。

炎は離れ離れの思いを引き寄せて一夜を飾る愛になる。

愛はいつまでもいつまでも思いを灯して一夜を燃やす青い光になる。

青い光はひとつになって燃えながら夜空の果てに消えてゆく。

たとえたった一晩でも…

トキエはこの日を待っていた。

 

 

だから、トキエはこの日のためにここに居た。

去年父がきて、今母が来た。

やっとトキエも「たましい」になれる。

父と母とトキエがようやくひとつの「たましい」になる。

 

トキエは会ったことはないけど

あっちこっちに選ばれたこどもは住んでいるらしい。

生霊(いきだま)やはトキエの代わりもすぐ見つけたって。

十三歳の男の子。

苛立ちのはけ口というやりきれない暴力で

そのまま冷たい暗闇の底に沈められた中学生。

最初は戸惑うかもしれない。

でも、すぐに慣れる。

八歳のトキエだってやれたんだもの…

 

 

トキちゃん

なにしてるの

あんたもこの青い螢に触ってごらんよ

 

 

それにしてもこの家はおんぼろ。

トキエは生霊やに手紙を書いた。

 

雨もりがします。

トイレがくさいです。

げんかんの戸もあけにくいです。

ゆかもくさってます。

たたみもかえてやってください。

たまにラーメンをとってやってください。

では、さようなら。

                トキエ

 

 

トキちゃん

トキちゃん

トキちゃん……

 

 

父のそばで母が呼んでいる。

あの日のように呼んでいる。

 

 

おかあちゃん

だいじょうぶだよ

トキエはもうどこにもいかないから

                        



                          2002・4・19  九鬼ゑ女