古代ロマンの夢の里「吉野ヶ里遺跡」に、お出かけになりませんか
佐賀県神埼郡の吉野ヶ里丘陵に「吉野ケ里遺跡」が発見されたのは、1982から始まった、工業団地造成の為の文化財発掘調査中であった。
1986年からの3年間の本格発掘調査において、大規模な環濠集落跡、堅固な城柵跡、8mの高さの望楼跡、2000を越える大量の甕棺等が続々発掘され、この遺跡は約40haに及ぶ、2〜3世紀の弥生時代後期の国内最大の遺跡であることが分かり、俄然注目を集めた。古代国家の謎を解き明かす弥生時代の遺跡として、1991年には国の特別史跡に指定された。
吉野ヶ里遺跡が、「魏志倭人伝」にでてくる『邪馬台国』の描写と集落の様子との相似点が多い事から、邪馬台国ではないかと、一躍世間一般の人の関心を呼び、古代ロマンの夢の里を一目見ようと、全国より年間数百万人の人が訪れ、観光ブームを巻き起こしている。
佐賀県では、工業団地の建設を大巾にを縮小し、観光事業の目玉として、物見やぐら、竪穴住居等を復元し、遺跡の大部分を保存し、活用できるよう整備を進めてきた。
第一期計画の環濠集落を再現した北内郭復元建物群が概成し、平成13年4月21日(土)国営「吉野ヶ里歴史公園」として、一般に公開された。
最寄りJR駅は、長崎本線「吉野ヶ里公園駅」。
魏志倭人伝とは
 |
| 魏志倭人伝の一部 |
邪馬台国論争の源になっている、謂わゆる「魏志倭人伝」は、2〜3世紀に中国で「魏」「呉」「蜀」の三国が争った時代ののことを書いた中国の国史「三国志」の中の「魏書30巻」の「東夷伝倭人の条」の中にでてくる。
その「魏志倭人伝」には、
1.邪馬台国への道のり
2.邪馬台国の女王は「卑弥呼」である
3.戸数は約七万戸である
4.魏の皇帝は、卑弥呼の使者に、「倭の国の国王任命書、「国王の金印」と「100枚の銅鏡」を授けた。
等邪馬台国のことが刻銘に記述されている。
その銅鏡は、奈良の馬塚古墳他から500枚以上出土している「三角縁神獣鏡」ではないかとの仮説がある。
邪馬台国論争
邪馬台国論争は、この「魏志倭人伝」をもとにしているが、その場所について「九州説」「畿内説」等があり、考古学者を二分して、熾烈な論戦が戦わされている。
主な論点は
1.魏志倭人伝に記載されている、詳細な道のりからの場所の推論
2.卑弥呼が魏の皇帝から授かった鏡の出土
3.鏡は果たして「三角縁神獣鏡」か
4.魏の皇帝より貰った「金印」のありか
5.邪馬台国の描写との整合性
等である。
畿内説を唱える人々は、吉野ヶ里遺跡では未だ発見されていない三角縁神獣鏡が、奈良の「黒塚古墳」他から大量に出土してので、畿内で間違い無いと、主張している。
また、九州説を唱える人々は、『邪馬台国』の描写と集落の様子がほぼ一致点していること、「三角縁神獣鏡」が中国から一枚も出土していないことから、卑弥呼の鏡では無く、九州説が正しいと主張している。
決定的証拠と言われている親魏王の「金印」は、未だ発見されておらず、これが見付かるまで、果てしない論争が続きそうである。
吉野ヶ里遺跡の謎
大量の甕棺からは、人骨、銅剣やガラス管玉が発見されており、人骨の男性は、スマートで背丈が180cm以上といわれている。また、集落の回りには深さ6mの壕や、8mの高さの物見櫓が、構築され、要塞堅固防衛がされている。
何ゆえ、通常の日本人より大きいのか、またこれほどまでに要塞堅固防衛が必要だったか、卑弥呼は果たして何物なのか、まだ謎が一杯ある。素人の我々は、無責任に、もしかしたら、吉野ヶ里の住人は、大陸からの進駐軍で、卑弥呼はそれの司令官ではなかったか等、自由な発想が出来るところが楽しい。皆さんも空想の世界で考えてみませんか。